こころの鏡 - 怒り

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怒り

譬えられたこと

善導大師の作られた二河白道(にがびゃくどう)の譬喩が表していること。

旅人は、私達のこと。昨日から今日、今日から明日へと進んでいく私達を旅人として表されている。どこへ行けば真の幸福になれるのか、どうしたら幸せになれるのかを求めて旅をしている。

真の幸福を教える人=善知識、の無い所を「無人空迥の沢」と言われている。

右手の水の河は、順境で大方うまく行っている時に、仏法を聴聞する支障となるのが我が身の欲の心。食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲に邪魔されて聞き難くなることを言われている。水が濡らしてゆくようにもっともっとと、欲が出てくる。多くの人が右利きだからこそ、水の河が右側に描かれている。

左手にある火の河は、逆境に聞法の障りとなる怒りの心。やることなすこと裏目に出て、思ったようにならない。そんな時に腹が立つ。夫婦喧嘩したから、上司に叱られて腹を立てているからといった理由で聞き難くなる。

因果の道理に従って、善を実行し悪を慎もうとすると、欲が深いし、穏やかだと思っていたが怒りっぽい私だと知らされる。善をやろうにも欲と怒りでなかなかできぬと知らされる。この二河にぶちあたるとは、仏教を聞く、因果の道理に従う、廃悪修善を実行するということ。

二河の間にある白い道は、聞法をしようという心。求道心とも言う。この道は細い。何かあるとすぐにやめておこう、となる。だから、白道は見えにくい。腹の立たない時には欲の水の波、欲が出ていない時には怒りの火の波が交互に来る。

しかし、仏法は聴聞に極まるからこの道を進め、と善知識がが常に示されている。

坊主や龍、虎、占い師等が描かれているが、これらを群賊、悪獣、悪知識と言い、聞法を妨げる全てのものを言う。

二河白道(にがびゃくどう)の譬喩

親鸞聖人が尊敬する善導大師は、二河白道(にがびゃくどう)の譬喩を作られている。

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なぜ苦しい人生生きるのか、何のために生きるべきか。幸福を求めて旅する旅人があった。「無人空迥の沢(むにんくうこうのさわ)」と言い、何の為に生きるかを教える人=善知識の無いところを彷徨っている。

そこをたまたま尊い方、善知識に出会う。善知識は、幸福を求めているなら西へ行けと説く。

すると忽然として大河が現れた。右手には水の河、左手には火の河。その間に幅14、5センチしかない白い道が通っている。白道(びゃくどう)を水と火の河が洗っていてとても渡れそうにない。

此岸には、坊主や龍、虎、占い師、青竜刀を持った男と、向こう岸を指さす尊い方が立っている。旅人には向こう岸は見えないが、阿弥陀仏が来いよ来いよと手招きしている。善知識が、ひたすら西に向かって進めと説かれるので、細く白い道を歩み出す。

そのうちに、後ろから危ないから辞めておけ、戻ってきた方がいいよ、と優しく止める者が出てきた。それらの制止はやがて強くなる。

それでも善知識の仰せに従って進もうとすると、やがて後ろの声は罵声に変わる。戻ってこい、戻らぬと殺すぞと。

戻っても幸福が無いこと、善知識の勧めだから、また旅人は気づかないが向こう岸からの阿弥陀仏の念力によって少しずつ旅人は進んで行く。

しかし、そのうちに右手の水の河の波も、左手の火の河の波も激しくなり、進むことも戻ることもできなくなる。留まっていてもどちらかの河に落ちて死ぬ・・・。

その時、火と水の河を恐れるな、そのまま救うぞの阿弥陀仏の声が聞こえる。「汝一心正念にして直ちに来たれ、我能く汝を護らん、衆て水火の難に堕することをおそれざれ」。

かくして旅人は阿弥陀仏に救われるという譬えである。

何が何を譬えてあるのか、機会を改めて書きたい。

転法輪

仏教で、仏による説法のことを転法輪(てんぽうりん)という。

また、内容が仏の説かれたものと同じであれば仏が説かれたのでなくとも、転法輪とされる。

法輪を転ずるとは、ローラーで道を舗装するように、苦しみ悩みで凸凹している心を平らにすること。

聞きにきた時に腹がたっていた人でも、平穏な心で帰るのはこのためだ。

失言

「かんしゃくの くの字をすてて ただ感謝」

    疲れている時、苦しい時、限界一杯の時、思わず放った言葉で相手を傷つけ、浅ましい自己の姿を思い知らされて落ち込むことがある。

    こんなはずではなかった、こんなに傷つけるつもりでなかった、我が身が放った言葉かと疑うのは、自分を知らないからだ。

    我が身が知らぬ我が心をご存知で、耐えて下されているのはどなたか。

    常に振り返り、くの字を捨ててゆかねばならぬ。

20年間の修行

9才の若さで天台宗・比叡山に出家された親鸞聖人は、20年間、修行された。

仏教の目的は「生死の一大事」といって死の大問題を解決し、仏のさとりを開くこと。それには、天台宗などの聖道(しょうどう)仏教では、法華経の教えに従って、欲や怒り、妬み・恨みなどの煩悩と戦って悪を慎み、善行を励む「修行」をせよと教える。

よく知られる「千日回峰行」はその修行の一例で、幕末から今日までやり遂げた者は十数人しかない。内容は以下の通り。

  • 12年間は結界の中で修行して山から出ない
  • 真夜中0時前に起床、
  • 山の行者道を30キロ歩く
  • 堂塔伽藍や山王七社、霊石、霊水など約三百カ所で所定の修行をする
  • 雨風雪、病気でも辞めることができない
  • 途中で挫折した時は持参の短刀で自害する
  • 最初の3年間は毎年百日、次の2年間は毎年200日、その翌年は100日、その後は200日間、休まず修行する
  • 最後の年には100日続ける「大回り」、山から下りて京都修学院から一乗寺、平安神宮、祇園と1日84キロを17、8時間で回る生死関頭の苦行

親鸞聖人は、この千日回峰行よりももっと激しい大曼の行(だいまんのぎょう)を成し遂げたにもかかわらず、死んだらどうなるかわからない、後生暗い心の解決を果たすことができなかった。

悟りには遠いと絶望された聖人は、遂に29才の時に、比叡山から離れることを決意されている。

押しつけ

「心こそ 心まよわす 心なれ 心に心 心ゆるすな」

    自分は精一杯やっているのに、あの人はそれをわかっちゃいない。互いにそう思っていると、意地の張り合いになる。

    見返りを求める恩着せ心が、怒りの元になっているようだ。

    本当にそれが精一杯か。精一杯を押しつけようとしていないか。

    常に自己に問いたい。

耐えて下さっている

「堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思え」

    ひどい物言い、命令内容、相手の失敗、いい加減な応対。

    とかく腹立たしいことがあっても、そのまま顔や口に出すのは余りにも子供だ。

    耐えてやっているのではない、自分に耐えて下さっているのだ。

    娑婆世界は、堪忍土ともいう。

    ならぬ堪忍、するが堪忍をする世界ということ。

怒りの元

「謗るまじ  たとえ咎(とが)ある 人なりと 我が過ち(あやまち)は それに勝れり」

    自分が正しいと思っているから腹が立つ。

    お前はどうだ、と言いたくなる。

    我が身の落ち度、欠点、失敗を棚に上げて、目の前の一言に反応している。

    智恵ある人に怒り無し、という言葉に反省させられる。

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